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第7官界彷徨

第7官界彷徨

蜻蛉の日記&2014年能楽堂&こまつ座

2009年 御堂関白日記より
 1009年、11月25日、実家の土御門にて
「中宮の御産場から女方(倫子)が来て言うには、「中宮が産気づかれました」と。すぐに御産所に参入した。御産の気配が有るとはいっても、まだ大したことは無くいらっしゃった。暫くして、また御産の気配があった。そこで、陰陽師を召した。教通を天皇に遣わした。次に東宮ふの藤原道綱、中宮大夫、中宮権大夫のもとに人を遣わした。」

 と書いてあります。ここに出て来る道綱は、かの蜻蛉日記を書いた道綱の母のかわいいひとり息子であります。

 蜻蛉日記は、権力者兼家の息子道綱を産んだものの、夫は彼女のもとを訪れることが絶え、毎日毎日その恨みつらみを書き綴ったかわいそうな女性の日記、というのがイメージです。
 引用、紹介されているのもほとんどそういう部分です。ところが、そののち、道綱の母は方向を変えて、息子の出世のために奔走(主に婚姻関係)する強い母に変身するのだそうですね。読んでないけど。


「人でなしの恋』2010年3月

  ドナルドキーンは書いています。
 (蜻蛉日記の初めには)
「聡明で感受性も豊かなくせに、自分が持っているものには一片の価値も認めず、持っていないものだけをひたすら思い、嘆く自分の肖像。作者によると、尼になるかあるいは自殺するかであったところをやっと思いとどまったのは、息子の道綱がいたためだというが、彼女はその大事な息子を、彼の父の愛情をもっと自分の方に向けさせんがための仲介者に利用するほど、人でなしなのである。」

 そうそう、彼女が怒っておこもりをしてしまった時、あわてて迎えに来た兼家と母の間を行ったり来たりして幼い道綱の足が痛くなってしまったことがありましたっけ。
 あんまりリアルな夫婦げんかなので、とても「人でなし」とは思えませんでしたが。
 大鏡にはこんな下りがあるそうです。
「この母君、きはめたる和歌の上手にておはしければ、この殿のかよはせたまひけるほどのこと、歌などかきあつめて「かげろふの日記」となづけて世にひろめ給へり。とののおはしましたりけるに、かどをおそくあけければ、たびたび御消息いひいれさせたまふに、女君
*なげきつつひとりぬるよのあくるまはいかにひさしきものとかはしる

それに対して兼家は
*げにやげにふゆのよならぬまきの戸もおそくあくるは苦しかりけり
(冬の長い夜を明かしかねるというのも道理だが、くるしいのはそれだけではなくて、戸の開くのが遅いのもつらいものです)

 大変でしたね~。

2014年1月7日
今日は、国立能楽堂に行きました。

千駄ヶ谷の鳩森八幡神社にもお詣り。 写真は、八幡さまの茅の輪です! 富士山もあったので、登りました。

能楽堂の演目は、まず新春を寿ぎ、「天下泰平・国家安穏」のための素謡「翁」。

次に狂言は大蔵流、茂山七五三さんと茂山宗彦さんで「寝音曲」。

主の宗彦さんは通りすがりに太郎冠者の謡を聞きます。早速呼び出して歌うようにいいますが、太郎冠者の七五三さんは、何かの度に歌わされてはたまらない、と、酒がないと歌えない、と言います。

早速大きな杯を用意させる主。

三杯飲んでもまだ歌えない、妻の膝枕でなければ歌えないという太郎冠者。主はそれでは自分の膝を貸そう、といい、主の膝で歌う太郎冠者。親子だけあって、通い合うぬくもりも感じられ、このポーズがたまりません!

続いて能は、金春流の「当麻」。

阿弥陀仏の化尼と中将姫を本田光洋さん。旅の僧たちに中将姫の物語を聞かせる門前の者に茂山逸平さんです。

諸国行脚の旅の僧が、熊野に詣でた帰りに、二上山のふもとにある当麻寺を訪れ、化尼(阿弥陀仏の化身)と化女(観音さまの化身)に出会います。

そこに門前の者が現れ、中将姫の伝説を語ります。

右大臣の姫が継母によって当麻に捨て?られ、そこで阿弥陀様への信仰のみに日々を暮らします。あるとき姫を発見した右大臣は姫を都に連れて帰り、入内させようとしますが、姫はそこから当麻寺に逃げ帰り、阿弥陀様に仕える一生をおくり、蓮の糸で曼荼羅を織り上げ、極楽浄土の人となる。

それを聞いた僧たちは、自分たちもいっそうの信仰に勤めようと思うのでした・・・。

2014年3月8日
 今日は、狂言「鎌腹」と能「葛城」でした。

 最初に甲南大学の田中貴子先生のお話がありました。葛城の神は、最初は一言主神という男神であり、雄略天皇の葛城巡幸の折、追い返した?と古事記にあるが、のちに力を失ってきます。

 葛城の神は、醜い姿を恥じて夜しか姿を見せないので、役行者に大峯山と葛城山の間に石の橋を作るように命令されたが、夜しか工事ができなくて、蔦蔓で縛られてしまったという伝説になるらしい。

 男神はのちに夜来る女神となるが、枕草子にも三場面ほど出てきて、それは女性とは限っていないそうです。

まず、狂言「鎌腹」

 働かない夫に怒って鎌を振り上げる「わわしい女」である妻。仕方なく山仕事に出かけたものの、妻にひどい扱いを受けたので、鎌で切腹をしようとします。

 大騒動の大騒ぎ。でも妻が全然可愛くなくて、面白くなかった。わわしさは、夫への愛の裏返し、と見たいのだけど。

能「葛城=かづらき」

 出羽の国、羽黒山から吉野の奥地の大峯山を目指す山伏たちは吹雪の中で道に迷い、柴取りの里の女に助けられ、その庵で暖をとらせてもらいます。そこで白づくめの装束の女は、勤行をしようとする山伏に、「三熱の苦しみを助けてほしい」「私は葛城明神である。かつて岩の橋を作れず、役行者の怒りをかい、蔦蔓で縛られたわが身」を語ります。

 三熱の苦しみとは、救われない人間に寄り添って神がともに苦しむもの、らしい。

 山伏たちの加持祈祷のなか、夜になって現れた女神は、荘厳な序の舞、大和舞を踊り、夜が明けぬ前にと、去っていくのでした。

 人である役行者が神である葛城明神に土木工事を命令するってのがすごいですね。

♪高天原の岩戸の舞。天の香具山も向かひに見えたり。月白く雪白く、いづれも白妙のけしきなれども、名におふ葛城の、神の顔がたち面はゆや、恥づかしやあさましや、明けぬ先にと葛城の、明けぬ先にと葛城の夜の、岩戸にぞ入り給ふ。岩戸の内にぞ入り給ふ♪

 古今和歌集巻の二十  ふるき大和舞のうた

*しもとゆふ葛城山にふる雪の まなく時なく思ほゆるかな

 この能でも里の女(神)が「しもと」を解いて暖をとってくれたのです。初演は世阿弥没後1465年2月。作者は世阿弥とも、そうは言い切れないとも言われているらしい。

葛城山は金剛山で、そこに天の岩戸があるとされていたらしい。孤独な寂しい神の、とっても素敵な舞でした!!

2014年4月9日
ある浦の名士?の男が法事のために有難い話をしてもらおうと、近在の僧を頼みます。僧は説法をしたことがないので、自信がなく、よく泣くという尼を頼んで盛り上げてもらおうと依頼。その時に、お布施を半分渡すという約束をしてしまいます。

 僧はけっこう上手に親孝行の話などをするのですが、尼は居眠り。途中から横になって寝てしまう始末。施主は満足するものの、貰ったお布施の分け前で僧と尼がもめておしまい・・・・です。尼を頼まなくても良かったので、自分に「自信」持つのって大事ですね。

 能は義経の「屋島」。

 例によって旅の僧が諸国行脚の途中、屋島にやってきます。塩を焼く塩屋に一夜の宿を借りた僧は、その塩屋の老人から、元禄元年三月十八日の屋島の合戦を、総大将源義経の立派な大将としてのふるまいを、つぶさに聞かされます。

 僧の前に浦の男が現れ、自分こそ塩屋の主というその男は那須与一の扇の話を、義経・与一・後藤兵衛実基・語り手の一人四役で語って聞かせ、 先の老人は義経の霊ではないか、手厚く供養してやってほしいと言います。

 塩屋の主人役は、重要無形文化財の山本東次郎さん。素晴らしい演技でした!

 やがて僧たちの夢に甲冑姿の義経が現れます。

♪落花枝に帰らず、破鏡再び照らさず、然れどもなほ妄執のしんにとて、鬼神魂魄の境界に帰り、我とこの身を苦しめて、修羅の巷に寄り来る波の、浅からざりし業因かな♪

 屋島の合戦で弓を流してしまい、それを危険を顧みずに取りに行った時のことを語ります。体が小さい義経は、身長に匹敵する弓を敵の手に渡して「小男」がばれるのがいやだったのです。

 この話、ちょっと笑えますけど、昔の人は大真面目だったみたいで、平家物語でも笑ってないですよね。

 最終的に義経の亡霊は、地団太踏んだまま帰っていくんですけど、最後は素敵!

♪水や空、空行くもまた雲の波の、撃ち合ひ刺し違ふる、船戦の駆け引き、浮き沈むとせし程に、春の夜の波より明けて、敵と見えしは群れ居るかもめ、鬨の声と聞こえしは、浦風なりけり高松の、朝嵐とぞなりにける♪

 小鼓、大鼓、笛も、リズミカルですごくすてきでした!


2014年5月16日
 年金者組合の恒例観劇会で、国立劇場にて前進座。
演目は河原崎国太郎さんの「お染の七役=於染久松色読販=お染久松うきなのよみうり」です。

 商家の一人娘のお染と、丁稚の久松の恋物語に、久松が実は武士の子で家宝の名刀を探している、という物語。鶴屋南北の書いたこの物語は、一人の女形がお染、久松はじめ7役を演じ分けるということで江戸時代に大当たりをとったらしい。

 近年、途絶えていたのを、昭和9年、前進座が復活上演。

 演じたのは先代(5代目)河原崎国太郎。

 その後、国太郎から坂東玉三郎・中村福助さんへ受け継がれ、1998年、前進座の当代国太郎の襲名披露の演目に選ばれ、玉三郎さん、福助さんに指導してもらったのだそうです。襲名から15年、芸の研鑽努力の結果がはっきり!(前のは見ていないけど、たぶん)

 嵐圭史さん、嵐芳三郎さん、藤川矢之輔さん、中村梅之助さんたちベテランにしっかり囲まれて、素晴らしい国太郎さんでした!

 お染と久松の早やがわりの後でも息をあげずに沈うつな母親のせりふ、ゆすりおどしをする土手のお六の凄み、奥女中の竹川、許婚のお光、芸者小糸、会場は沸きに沸きました。

質屋の丁稚が、追い出されるときに「吉祥寺あたりに行って好きな役者になるんだ」との捨てぜりふに、会場からは大きな拍手が!観客と舞台とのあたたかい交流がありました。

 「あれも、これも、見ていただきたいので」と、舞台の時間を予定より30分くらい延ばさせてください」と、初めに説明がありました。

  今回は年金者組合の企画。帰りのバスでの合評会も楽しいものです。女性たちは「きれいで、きれいで夢心地!」そればっかり。

 ストーリーがよくわかるためには、音声ガイドやパンフレットを買うべきだった、という声も。また来年見ましょうね!と、初めて会った人たちともすっかりお友達になれました。

 そうそう、ついったーを見ていたら、「お染の舞台の稲わらからカマキリの子が大量発生、材料の稲についてきたらしい」どの稲わらかな?隅田川のシーンの干してある稲かな?それとも、嫁菜売りの矢之輔さんの持っていた藁づとかな?で、笑えました♪

2014年6月4日
国立能楽堂の狂言は、太郎冠者・野村万蔵さん、主・野村萬さん、主の友人・野村万禄さんの「縄綯=なわない」。風格ある素晴らしい姿でした。

 博打に負けて 友人に金銀の上に太郎冠者まで「カタ」にしてしまった主。わけを知らされず勝った友人の所に行かされ、腹を立ててその新しい主のいうことをきかない太郎冠 者。山の向こうに使いに行けというと、脚気なので行けないといい、縄をなえ、というと縄などなったことがない、と反抗します。元の主のところに帰された太 郎冠者は、得意の縄をないながら、新しい主人宅で見てきた悪口をいうのです。

 驚きは、家の者(下人?)は博打のカタになってもいい、ってこと。意外なのは、能天気な元の主を太郎冠者が好感を持ってるらしいこと。無断で自分をやり取りすることが許せなかったんでしょうけど。縄を綯う様子が上手!!

 能は「班女」。シテ・遊女花子に今井清隆さん。

  美濃の国、野上の宿の遊女花子は扇が好きで、いつも扇を持っていたため「班女」と呼ばれていました。その由来は中国の「班婕予」という皇帝の愛を受けてい た女性が、皇帝の愛を失い捨てられた自分の境遇を秋になって使われなくなった扇に例えて詩を詠んだ・・・ことから。「文選」「怨歌行」などの漢詩から日本 に伝わってきたそうです。

 花子は東に下る吉田少将と契りを結びます。少将は花子と扇を交換して東へ下っていきます。寂しさから、扇をながめて宴席にも出ない花子を、宿の長は怒って追い出してしまいます。

 花子は心を乱した女物狂いになって京へやってきます。帰途に野上で花子を訪ねる少将ですが、すでに行方不明。

♪春日野の雪間を分けて生ひ出で来る。草のはつかに見えし君かも。よしなき人に馴れ衣の、日を重ね月はいけども、世を秋風の便りならでは、ゆかりを知らする人もなし。夕暮れの雲のはたてに物を思ひ、上の空にあくがれ出でて・・・・♪

 と、花子は狂い舞い踊ります。

下鴨神社にお参りする少将は、離れ離れになった恋人との再会を祈る女物狂に出会います。少将の供が何か芸をするようにいうと、女は班婕予の扇の詩を吟じ、泣き崩れます。二人は扇を見せあい、めぐり合いを神に感謝したのでした。

♪取り出だせば、折節黄昏にほのぼの見れば夕顔の、花を描きたる扇なり。この上は、惟光の紙燭召して、ありつる扇、ご覧ぜよ互ひに、それぞと知られ白雪の、扇のつまの形見こそ、妹背のなかの情けなれ・・・。♪

 狂い踊る花子の舞が素晴らしかったです。少将は恋狂うほど素敵じゃなかった。能に多くある旅の僧が霊から話を聞く、の旅の僧タイプ。こういうものなのかもね。

 2014年8月22日
 今日は、新宿の紀伊国屋サザンシアターに、こまつ座の「兄おとうと」を見に行きました。

 吉野作造と、10歳下の弟、官僚でのちに大臣になった吉野信次の妻は、それぞれが姉妹でした。

 吉野作造(1878~1933)は、宮城県の出身で、あまりの秀才なので仙台一高(旧制二高)にも東京帝国大学にも特待生として授業料は免除だったそうです。卒業の折には優等生として恩賜の銀時計をもらったそうです。

 井上ひさしによれば「彼は、近代国家であるならば、すでにあってしかるべきものなのにまだないもの、それを一人で実現しようとした人ではないか。貧しい産婦たちの産院。親のない子どもたちのための保育所。朝鮮や中国からきた苦学生のための奨学金制度。医者にかかれない人のための病院。仕事の元手のない人たちに元手を貸す相互金庫・・・・。などなど。大正デモクラシーの時代をまるまる生きた人らしい。わがローザは(1871-1919)なので、ローザの時代ともかぶるんですね。

 「政治とは国民全体の幸福を考えるべきもの」という彼は右翼から狙われ、また、「帝国主義憲法に基づき帝国議会を通して政治を改善していこう」という吉野の主張は、旧弊であると左派からも軽んじられたらしい。

 最後のほうのせりふで

「今は、議会の外でいろいろなことが決められてしまっている」という作造のせりふは、平成の今の日本そのまま!

 吉野作造と弟の信次は、それぞれの思うものが違って仲違いしますが、それぞれの妻である姉妹が2人の中を取り持つのです。

 昭和7年の場面、兄は

「宮城と軍部の間で決めている政治の流れを、帝国議会へ引き戻せ。財閥の番犬に甘んじている政党に渇を入れろ。そうしないと宮城と軍人どもが間もなくこの国を地獄に引きづり落としてしまうぞ」「国家が悪いことをすれば、それはかならず国民に返ってくるんだ・忘れるな」 と弟にいいます。

 国家はおにぎり、問答も楽しくて深い。国は一粒一粒のお米がまとまったおにぎりのようなものだけど、では、その芯になっている梅干は何だろう?と、兄おとうとの夫妻と、作造の命を狙いにきた右翼の男と作造がかつて家庭教師をした袁世凱の息子の妹?である娘とで、おにぎりを食べ食べ考えます。

 「民族」でも「言語」でも「宗教」でも「文化」でも「歴史」でもない。国の芯は何なのか?「それは、ここでともに暮らし、より良い生活めざそうという思い」それが国のもとになり、その意思と願いを文章にまとめたものが憲法なのだ」と、作造はみんなを導いていきます。

 おにぎり=米粒はバラバラではいけないが、一粒一粒が光って見えるようでなくてはいけない。米粒=個人、芯=憲法、おにぎり=国家・・・という考え。

 みんなで歌います。♪三度のごはん きちんと食べて 火の用心 元気で生きよう きっとね!

 これさえ守れれば国民は幸せに生きられる。たとえ大きな自然災害にあっても・・・。いっそ国歌にしたいくらいだ。というせりふもあります。

 ところで、この「兄おとうと」は、5月11日から全国を公演しているのですね。東京公演の前は、広島の「安佐南」だったのです!今回の土砂災害のところ・・・・。お見舞い申し上げます。










 



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